ツインママさん「命のバトン」 | 第1回ぐるっとママ懸賞作文

「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

第1回ぐるっとママ懸賞作文

ツインママさん「命のバトン」

『いつも近くで家族が見守っている。恐れずに挑戦し続けよう!』
 


「おめでとうございます。双子の赤ちゃんですよ。」
初めての妊娠が分かったのは21歳の冬。まさか自分が双子を授かるなんて、青天の霹靂だった。

私と主人は、友人を通じて出会い、交際半年で出来ちゃった婚。
出産に対し迷いが無かった訳ではないが、双子がお腹に来てくれた事は奇跡だと思った。
「絶対に産まないと後悔する、私はこの子達と生きていくんだ。」若さと勢いで周りの反対を押し切った。
妊娠が分かった時点で既に3ヶ月目。腹を括ったはいいが、そこからは怒涛の日々だった。

どんどんお腹が大きくなる中、働きながら1時間以上かけての通院。
多胎児は、普通のお産よりハイリスクとなる為、大きな手術のできる総合病院に紹介状をもらった。
妊娠7ヶ月目に退職したのも束の間、切迫早産で入院となった。人生で初めての入院。
周りは同じ双子のお母さん達が多く心強かったけれど、ベッドの上から身動きの取れない生活とホームシックで、出産までの2ヶ月がとても長く感じた。そんな中心の支えになったのが、主人をはじめ、遠方までお見舞いに来てくれた友人達。
地元から何人も駆けつけてくれて、この時程人の有難みを感じた事はなかった。

入院中に読んだ本に、「お母さんが笑うとお腹の赤ちゃんも一緒に笑う」と書いてあった。
家族と友人のおかげで、私もお腹の赤ちゃんも笑顔を沢山もらった。

お産の時がやってきたのは、35週と3日目の朝。
強い腰痛があり、午前中の内診で子宮口が開いているのが分かるとすぐに手術となった。

出産予定日より2週間早く、2007年5月23日の正午、1912gと1864gの一卵性の女の子が誕生。

先生には、それほど小さく生まれた訳ではないと言われたが、私には想像以上に小さく戸惑った。
我が子に初めて対面したのは、生まれてから4日目。保育器の中で黄疸が出ていたが、命の別状はないと聞かされ安心した。
すぐに抱く事が出来なかったけど、同じ顔をした赤ちゃんを見て、生まれてきた事がまだ信じられない気持ちと、やっと会えた喜びでいっぱいだった。

すぐに実家の家族に無事生まれたことを報告すると、電話の向こうで兄姉が祝福してくれた。
「良かったね、おめでとう。」母の安堵した声を聞いてから、思わぬ話を聞かされた。

私が入院中、父が癌で余命宣告を受け、大きな手術をしていた。
お産のストレスにならないように、出産まで隠していたと。
突然の事に目の前が真っ暗になり、病院の電話BOXで泣き崩れた。
反対されたが、産む決断をした私を受け入れてくれた父。障害を抱えながらも、子供4人を育ててくれた。
全盲だったが、そんな事は微塵も感じさせない程タフな人だった。あんなに強い父がまさか。
既に手の施しようがなく、自宅で闘病生活をしていた。そんな父に、一度だけ新生児の双子を抱かせてあげる事ができた。

しかし、その半年後には帰らぬ人となった。
あれから15年が経った今、泣きながらこの作文を書いている私と、思春期真っ盛りな双子の顔が、父には見えているだろうか。

子供が生まれた直後、私は兄姉に父の看病を任せきりにしてしまい、最後の最後までろくに親孝行が出来なかった。
本当に悔やんでも悔やみ切れないが、娘達に父の強さを教えない日はない。

障害を抱えても、社会との繋がりを持ち、常に挑戦し続けていたこと。
五体満足である私達にも、何だってやれる。この先何があっても、何世代も続く命のバトンをもらったんだ。
みんなが見守ってくれている。だから、恐れずにチャレンジし続けよう。

人生が楽しいんだって、生きる喜びを背中で見せていくのは、親である私と主人の役目だ。
天国の父もきっと応援してくれているだろう。
過去を振り返りながら、そう自分を奮い立たせる。

目の前に居る娘達を見ながら、この作文を書く事で、改めて当たり前じゃない幸せに感謝することができた。

 


 

岐阜県 ツインママさん
題名:命のバトン
子どもへ伝えたい言葉:「いつも近くで家族が見守っている。恐れずに挑戦し続けよう!」